名誉会員 中村圭介氏追悼
正会員 泉 修二
圭介さんのデザイン人生をJID賞を得られた「日本のインテリア100年」、家具の歴史館での「梶田恵回顧展」などを含めた史的研究、デザインと社会史の関係で日本近代を捉えようとした「文明開化と明治の住まい」などから史的研究者と観るむきも多い。しかもこれらの研究の合間に纏められた国会図書館(旧上野図書館)の美術工芸関係の書籍を自ら整理した分厚い目録を見ただけでもその指摘は正当でもあろう。しかしそれは単なる彼の一側面でしかないことを此処に記したい。
府立工芸卒業の2年後、三越での戦中最後の展覧会に「家具及工芸品綜合展観(昭和17年)」というのがあった。もう家具も公定価格に縛られていたし、工芸自体も「戦時中何が工芸だ」という風潮の中でよくやれたと思う。工芸家の芹沢銈介なども参加していたからだろうがその中に、百貨店が其れまで追いかけてきた趣味的な方向とは違う「工場読書室」という創作があった。まだ二十歳にならない戦場に赴く前の彼の作品だ。敗戦翌年に中国から帰還した圭介さんの第1作(昭和23年)を画像としてここに載せた。
公定価格の椅子 |
セットに腰掛けた三越スタッフ |
戦後復刊の新建築にも掲載された作品だが、互平材を主体とした公定価格で売れる製品としてクッションを必要とするなら座布団を・・と考えたデザインである。いずれも日本人の生活に近代を取り込もうとする意図は明瞭である。
デザインは社会的良心によってなされても、一般の人々に光明をもたらすよりは有産階級や政治権力によって貧乏人と富裕層の格差拡大に利用されたり、支配体制によって組み替えられるのが資本主義国家の傾向であろう。彼の経歴の中にデザイナーとしては珍しく全日本百貨店労働組合書記長の記述がある。三越とオープンショップ制組合との争議の流れの結果だが、圭介さんは其れらの運動の中で日本が太平洋戦の敗戦を機に法律は消滅したものの戦後も引きずっている明治民法後遺症からの脱出を含め、西欧の人々が血を流して勝ち取った欧米のデモクラシーや人権をも改めて学び直したのではなかろうか。
1958年に出発した日本室内設計家協会(現日本インテリアデザイナー協会)へは創立時入会だが、理事長職2回は彼一人だけである。しかも一般的にはためらいがちな事務局、 財務職を主体に受け持ち、その間に職能団体として不可欠な基礎作りをおこなう。彼の開けっ放しの笑顔と恬淡とした答弁はそれだけで説得力を持った。進めた項目は憲法、著作権、標準仕様などだが、特に報酬規定の計画推進は特筆に値しよう。委員会での推進だから彼一人だけで・・とは言わないが、求心的な姿勢が60年後の今でも使用に耐えるものを作り出した功績は大きい。他団体などとの関係づくりなど語りたい項目は多いが、勲五等の受勲や国井喜太郎賞などが多くを語っていよう。今はご冥福を祈るばかりである。
行を共にした幾つかの山々を思い出しながら。
中村圭介 略歴
1923年 東京市向島区(現在の東京都墨田区)に生まれる |
1969年 著作「日本のインテリア100年」でJID賞受賞 |
リビングセット カンツー第3回国際家具設計競技受賞 |
同左 ソファーベッド時の形態を表示 |
三角椅子 |
ダーツチェアとテーブル |
著書「文明開化と明治の住まい」暮らしとインテリアの近代史(上)の表紙 |
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